【2024年3月11日(月)】あの日、あの時、あの場所で――東日本大震災から13年

ほぼ引きこもり日記

アラ還個人事業主の雅栄です。

私は、東日本大震災のとき、仙台市内の中心部にある会社で仕事をしていました。

あの日、あの時、あの場所で、私は何を感じ、何を見たのでしょうか。

今から13年前のことを振り返ってみます。

地震発生から脱出まで

揺れが始まったときは、またか、程度に思っていて、すぐにおさまるだろうと甘く考えていた私。

でもあのときは、揺れが異常に長く続いただけでなく、強さが増していく感覚。

揺れに耐えながら、すぐ後ろの窓から外を見ると、向かいのビル群のタイル壁がものすごい音をたてて落ちていくのを目の当たりにしたとき、「あれっ?このビル倒壊するのかな」と真剣に考えました。

身の危険を感じたあとは、揺れの続くなか、同僚たちとあっという間に外に無事脱出!

ビルは持ちこたえてくれてホッとしたのも束の間、断続的に襲ってくる大小の余震。

結局その日は帰宅できず、同じく帰宅できない数名の同僚と会社の応接間にとじ込もって、終わらない余震にビビりながら長い夜を過ごしました。

情報との闘い

停電してましたので、情報源は電池式のラジオ。

続々と流れてくる被災状況に「終わったな・・・」と、誰かが呟いたのを今でも覚えています。

私たちは、自分たちの目で見たものや聞いたもの以外に、何が起きているのか、どうなっているのか、知る術がありませんでした。

家族や友人の安否も分からず、携帯電話も通じない。

インターネットも使えない。

テレビも見られない。

ラジオだけが、外界との唯一のつながりでした。

しかし、ラジオから聞こえてくるのは、津波の被害や原発の事故など、次々と悪いニュースばかり。

私たちは、不安や恐怖に押しつぶされそうになりました。

それでも、ラジオから流れる情報に耳を傾け、自分たちの状況を把握しようとしました。

情報との闘いは、サバイバルに欠かせないものでした。

あの日から13年

私は、その後、無事に帰宅できました。

家族や友人も、幸いにも無事でした。

しかし、多くの人々が亡くなり、行方不明になり、避難生活を余儀なくされました。

あれから13年が経過しました。

被災地は、復興に向けて歩みを進めていますが、まだまだ課題は山積みです。

原発の事故も、未だに収束していません。

私は、あの日のことを忘れません。

あの日のことを忘れてはいけないと思います。

あの日のことを伝え続けることが、私たちの責任だと思います。

あの日、あの時、あの場所で、私は何を感じ、何を見たのでしょうか。

今から13年前のことを振り返ってみました。

あなたは、あの日のことを覚えていますか?

今回もお読みいただきありがとうございます。

よろしかったら、また読みにお越しください。

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